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幸せになるために不可欠なものとは?

幸せになるために不可欠なもの-サムネ用画像

幸せになるために不可欠なもの?

そんなのお金一択でしょ?

 

という考えも間違いではありませんが、
所得や資産が少ない人が幸せになれないとは限りません。

例えば『全員の年収が一律で200万円の村』があるとしましょう。

 

村には高級車を買う人も、豪邸を建てる人もいません。

そこに住んでいる人たちは、
はたしてお金と幸せに繋がりがあると考えるでしょうか?

 

お金とは、あくまで相対的*な価値基準です。
*他との比較において成り立つさま。

 

 

一方、私が主張したい【幸せになるために不可欠なもの】とは、
お金のような相対的なものではありません。

 

反対に、個人にとって絶対的*な価値基準です。
*他のなにものとも比較できないさま。

 

それが感受性です。

 

 

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どうして絶対的な価値基準なのか?

本題に入る前に、感受性について少し補足しておきましょう。
 ※知ってるよって人は読み飛ばしてください。

感受性とは?

 

感受性とは外から刺激や印象などを受け入れる能力のことです。

 

想像してみてください。

あなたが玄関を出て空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。

このとき、あなたはどんな一言を言うでしょうか?

 

  1. 「晴れてるなあ」
  2. 「過ごしやすそうなイイ天気だなあ。今日も一日頑張るか!」
  3. 「雨じゃないのはいいけど、雲一つないのは暑いから勘弁」

 

スパッと答えから言いますと、1番が感受性が低い回答で、2番3番が感受性が高い回答です。

 

2番と3番は【青空を見た】という単純な事象から、【過ごしやすい天気】という印象や、【日差しが直に当たる】という印象を受けています。ポジティブかネガティブかという差こそありますが、1番と比較すると、より多くの印象を受け取っていることが分かると思います。

 

このように外界からの刺激や印象を受け入れる能力のことを感受性と言い、それが多量であれば感受性が豊か、少量であれば感受性が貧しいと言います。

 

さて。
それでは、どうして絶対的な価値基準なのか?について言及していきます。

 

誤解が生じないよう、最初に言っておきますが…感受性の違いは他者と比較できますので、相対的な価値基準だと言えます。

※初手から矛盾していますが、あとで説明しますのでご安心ください。

 

いくつか感受性の違いが比較できるような例をあげてみますね。

  • ホラー映画を見て
    ①悲鳴を上げる人 ②顔色一つ変えない人
  • 不倫報道を聴いて
    ①嘆く人 ②怒る人
  • 猫がいたとき
    ①撫でたい人 ②近づかれたくない人

 

このように①と②で感受性の違いが比較できることは明らかです。

 

 

では、なぜ感受性を絶対的な価値基準と主張するのか?
それは…


感受性とは個人に紐づく固有の価値観だと考えるからです。

 

まだ固い表現なので崩していきます。

 

まず、私がここで言っている絶対的という言葉は、本来の意味とは少々異なっているということ。

 

絶対的の本来の意味は、
他のなにものとも比較できないさまを表します。

 

その一方。
私が言っている絶対的の意味は、
他のなにものとも比較する意味がないことを指しています。

 

言葉の意味を変えてしまっている時点で私の言葉選びが間違っているのは分かっていますが、それはひとえにこの後の主張が言いたかったからなのです。

 

人の感受性は、意図的に変えられるものではありません。

 

「学校に馴染めないのは異常だから治しなさい」
「こんなに面白いものが理解できないなんて信じられない」

自分の意思ではどうにもできないこともあるはずです。
周りの人たちがなんと言おうが合わないものは合いません。

 

このように…
他者との比較が意味を為さないという意味で感受性を捉えれば、
対比への否定、ひいては個人にとっての絶対的な基準だと
言えるのではないでしょうか。

 

まあ、長期的になら感受性を変えることもできるでしょうけれど。
条件を細かく指定しないとあちこちに矛盾が生じますね……論文ではありませんので何卒ご容赦願います。

 

 

どうして幸福になるために不可欠なのか?

この記事を書こうと思ったきっかけの話になります。

 

昨今の社会で(というかメディアの戦略により)話題沸騰中のアニメーション『鬼滅の刃』の劇場版が先月から放映され始め、興味のない人でも名前を見たことや聞いたことがあるかと思います。

 

注目度が高ければ高いほど賛否両論の意見で溢れるのも当然のことですが、私の耳にも二つの意見が舞い込んで来ました。

Aさんの意見

 

  • 何が面白いのか分からなかった。
  • 何かモヤモヤする(←メディアと大衆の関係性に対する苛立ち)。
Bさんの意見

 

  • 内容は事前に少し聞いていたけど、それでも泣いた。
私の意見

 

  • 映画は観ていない。
  • 連載1話目から面白いと思っていた(異端者?)。

 

嵌らなかったAさんと嵌ったBさん。
それと映画を見てない私。
なので、私はフラットな感情で二人の意見を聴いていました。

 

Aさんは、感受性が刺激されなかったとは限りません。
面白くないと判じた理由が、虚無感によるものか、あるいは苦手意識によるものなのかは判然としていませんから。

 

ただ、感受性が働いたかどうかが定かではないAさんよりも、
泣いたBさんの方が感受性が豊かだった可能性が高いでしょう。

 

Bさんの泣いたという反応は、感動した事実を示しています。
それはつまり、『鬼滅の刃』の鑑賞において、BさんはAさんよりも大きな刺激や印象を受けた可能性が高いということです。

 

はたしてAさんとBさん、どちらの方が人生を楽しめていると思いますか?

※楽しめなかった人がいても何らおかしなことはありません。所詮は感性の違いです。別の映画を観たときにはAさんとBさんのポジションが反対になることもあるでしょう。

 

感受性の豊かさは、生涯で感じる
刺激や印象を受け取れる機会を増やしてくれることでしょう。

 

反対に感受性が貧しければ、幸せを感じるハードルがやたらと高くなり、幸福を実感することが難しくなるでしょう。

 

 

 

ちなみに、感受性の豊かさにはデメリットも存在します。

ちょっとした会話の中で要らないストレスを溜めてしまったり、
心の平穏を乱しかねない問題に気付いてしまったり、と。

 

ですが、そんなデメリットも許容したうえで、感受性は豊かであるべきだと思います。

 

極端な話をすると、感受性が空っぽの人はロボットと同じです。

ロボットはセンサーで感知したデータを数値として受け取り、プログラムに基づいて決まった対応を取ります。人間のように印象や雰囲気と言った抽象的な概念を受け取ることはできません。例え、感動や喜びを表現しても、それは数値の入出力でしかありません……

 

 

幸せになるためには「受け入れ口」を大きくしましょう

 

もし大きくできないとしても、小さくならないように気をつけましょう。
受け入れ口が小さくなるとは、自分の感受性を拒むことです。

 

具体的には「どうせ面白くない」や「どうせ予想の範疇だ」などと自らに暗示をかけて、物事に対する興味関心を薄れさせるようなことですね。

 

歳を重ねるにつれて斜に構えるようになってしまう。

それはもしかすると防衛本能なのかもしれませんが、守りの壁が高くせり上がるほどに、幸せも流れ込まなくなってしまいます。

適度に壁を壊すことも、幸せのためには必要だと思います。

 

長い人生、大小さまざまな物事を見るはずです。
しかし、興味や関心を失ってはいけません。

幸せになるため、幸せを感じるために
感受性は絶対不可欠な要素です。

 

 

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日本の幸福度

幸せ関連でちょっとした余談です。

 

国連のSDSNが発表している2020年版の世界幸福度ランキングで日本の順位は62位

 

調査対象国である156ヵ国の中では真ん中よりも上の順位ですが、先進国では最低レベルという現実があります。

 

ランキングの分析を見ると、日本は寛容さに対する評価が低いそうです。

 

これはもしかすると、感受性が低い(想像力が足りない)人が他者に厳しく当たっているがために導かれてしまった結果なのかもしれない……そんな風に想像すると無性に悲しくなります。

 

自分の幸せだけでなく、人の幸せにも気を遣える、そんな社会になるといいですね。

 

以上、『幸せになるために不可欠なものとは?』でした。